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京都地方裁判所 平成6年(ワ)2996号 判決

原告

丙山太郎

右訴訟代理人弁護士

岡田宰

長嶋憲一

佐藤皓一

吉田杉明

右訴訟復代理人弁護士

野口英彦

被告

乙山花子

右訴訟代理人弁護士

井口博

植木壽子

岩永惠子

河合徹子

川村フク子

佐賀千惠美

高瀬久美子

竹川幸子

段林和江

松尾園子

養父知美

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は原告に対し一〇〇〇万円及びこれに対する平成六年四月九日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  事案の要旨

本件は、新聞に掲載された被告作成の別紙一記載の内容の手記(以下「本件手記」という。)及び公開シンポジウム参加者に配付された被告作成の別紙二記載の内容の文書(以下「本件文書」という。)に原告の名誉を毀損する箇所があり、これにより原告の社会的評価は失墜し、精神的苦痛を被ったとして、不法行為に基づく損害賠償としての慰謝料一〇〇〇万円とこれに対する訴状送達の日の翌日である平成六年四月九日から支払済みに至るまでの民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  前提となる事実

争いのない事実並びに証拠〈省略〉及び弁論の全趣旨によって認められる事実は以下のとおりである(争いのない事実はその旨を記載してある摘示部分である。)。

1  当事者等

(一) 原告は昭和三四年に京都大学法学部を卒業し、昭和四〇年に同大学博士過程修了後、大阪外国語大学講師、広島大学政経学部助教授を経て、昭和四七年に京都大学東南アジア研究センター(以下「センター」という。)助教授に配置替えになり、昭和五一年にはセンター教授に任ぜられた。平成二年四月から平成五年八月まで(平成五年二月一八日に再選)にセンター所長を務めた。

その後、平成五年八月一日には右所長職を辞し、さらに同年一二月一九日に文部教官である同大学教授の職も辞する旨の「教授辞職願」を同大学に提出し、同月三一日付けで文部大臣より同大学教授辞職承認を受けた。(争いがない。)

東南アジア地域の総合環境研究を専門分野とし、学問的に脚光を浴びることが少なかった東南アジア研究の第一人者として、ユネスコ東アジア文化研究センター運営委員、ノーベル賞の選考母体であるスウェーデン王立科学アカデミー会員、文部省学術国際局学術審議会専門委員を務めていた。平成五年からは自らが「領域代表者」となって、文部省科学研究費補助金(総額五億円)を得て、「総合的地域研究の手法確立―世界と地域の共存のパラダイムを求めて」と題する重点領域研究(四か年計画)をセンターにおいて始めた。

また、世界賢人会議企画委員会委員長、国土庁国会等移転調査会委員を務めるなど専門分野外でも活躍し、財団法人平安建都千二百年記念協会平安宣言起草委員会座長、財団法人京都市音楽芸術振興財団理事、財団法人稲盛財団理事、京都賞審査委員長等を務めるなど、地域の有力者としても発言力のある人物であった。

なお、遅くとも昭和五七年には現在の配偶者である丙山春子と婚姻関係にあった。

(二) 原告は京都大学の自分の研究室では「第一秘書」と呼ばれていたK(遅くとも昭和五七年には原告の研究室に勤めており、平成五年三月までには退職した。)をはじめとして数名の女性秘書を雇っていた。このなかには原告の私費で雇われた非常勤職員(いわゆる「私設秘書」)もいた。

原告は秘書らに対し、自らを「世界の丙山」と称し、また秘書らに不手際があると、口で厳しく叱責するばかりではなく灰皿を投げたり、殴りつけたりしたことも少なくなかった。

新任の秘書の指導等にはKが主にあたっていた。平成五年三月にKが退職した後は、勤務要領、態度等を記載した「五訓」と題する文書(その内容は別紙三記載のとおりである。以下「五訓」という。)及び「出張に際しての心掛け」と題する文書(その内容は別紙四記載のとおりである。以下「出張の心掛け」という。)が秘書を通じて新任秘書に渡された。とくに「五訓」は朝礼で唱和していた。

(三) 被告は平成三年に京都大学人文科学研究所の教授に任官し、平成七年三月三一日に同職を定年で退き、同年四月一日より京都橘女子大学教授の職に就いた。(争いがない。)

2  センターについて

(一) センターは昭和三八年に東南アジア及びその周辺諸国を総合的に研究することを目的として設立された研究機関である。当初は京都大学の学内措置として設置されたが、昭和四〇年からは正式に国立大学の研究機関となった。平成二年からは研究部を生態環境、社会生態、統合環境、地域発展、人間環境の五つの研究部門と三つの客員研究部門に分け、日本における東南アジア地域の総合的研究、留学生教育、国際交流等の数少ない拠点として発展してきている。

(二) センターの運営については、所長(任期は三年である。)の他、協議員会(所長を含めたセンター所属の全教授と一名の助教授、関係学部及び研究所から選任され所長が委嘱した数名の協議員で構成される、センターの運営に関する最高議決機関である。)、教授会(センター所属の全教授で構成される。なお、全助教授も参加する運用になっていた。)、所員会議(センター所属の全教授、全助教授、全助手で構成される。)という機関の関与の下に決せられている。とくに、教授の任免等の人事の問題については、教授会の決議を経て、最終的には協議員会で決せられる。事務補佐員(非常勤職員)の任免は京都大学総長の権限であるが、実際には関係する委員会や職場となる研究室の教授または助教授が決め、総長の任免行為は各機関の代表者(センターの場合は所長)を通じての事務手続の一環にすぎない(給料は京都大学を通じて支給される。)。

平成五年当時では、センター教授が一〇名、助教授が八名、助手は七名、事務補佐員が二〇名前後(ほとんどが女性であった。)であった(うち、女性は二二、三名であった。)。

(三) 平成五年四月一日付けでセンター内に副所長(センター外の事務や交渉等で多忙な所長に代わって所内運営事務を掌理し、所員会議の議長も務める。当時は高谷教授が就任した。)と部門長会議(五つの研究部門の各代表である教授一名を部門長とし、この五人と副所長の六人から構成され、センターの将来や研究上の諸問題を検討する。副所長が招集し、当時のセンター所長であった原告は加わらなかった。)が新設された。

3  京都大学女性教官懇話会(以下「懇話会」という。)について

(一) 懇話会は京都大学に勤務する女性の教官の相互の親睦と交流、女性研究者の地位の向上と差別の撤廃を図ること等を目的として、昭和五六年の夏に結成された。具体的活動としては、一年に一、二回程度の、それぞれの分野の最先端の学問について発表する全学的な研究会の開催、一年に一回(大体三月ころ)、京都大学の女性教官がかかえている、いろいろな問題について話し合うための総長と代表及び幹事の会合の主催等をする。

平成五年当時、会員は六十数名であり、被告及び米澤真理子センター助手(以下「米澤助手」という。)も会員であった。とくに被告は会の代表を平成五年から務めた(任期は一年間であった。)。

なお、「セクハラ疑惑事件の徹底究明を求める大学教員の会」は懇話会と関係がなく、被告個人も関係していない。

4  原告とS(以下「S」という。)の関係

(一) 原告は昭和五七年一月ころに、大阪外国語大学で行っていた特別講義をきっかけに、同大学インドネシア語学科に在学していたS(当時の姓は「H」である。)と知り合った。(争いがない。)

その後、原告とSは同月末から二月の初めのころ、大阪市所在の新阪急ホテルにて、夕食を共にした後、同日午後八時ころに、原告がチェックインを済ませていた同ホテルの部屋に赴き、そこで性的関係を持つに至った。(争いがない。)

(二) Sは同年四月からはアルバイトとして、大阪外国語大学を卒業した後の昭和五九年四月からは非常勤職員として、センター内の原告の研究室に勤務し、昭和六三年三月に退職するまで原告と性的関係を継続していた。(争いがない。)

この間、Sは昭和六一年四月に大阪大学法学部の三年次(専門過程)編入試験に合格し、同年八月に現在の夫と結婚した。(争いがない。)

5  被告の作成した文章の存在及びその公表

(一) 被告は不特定多数の者が購読している京都新聞の平成六年一月二五日付け朝刊紙面に「学者と人権感覚―丙山元教授問題によせて」と題した手記(本件手記)を掲載した(Sには「甲野乙子」という仮名を用いた。)。(争いがない。)

(二) 被告は同年二月二〇日に京都府婦人センターで開催された「大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別を考えるシンポジウム」において、不特定多数の参加者に対し、自分が作成した「河上倫逸氏に答える セクハラは小事か」と題する文書(本件文書)を配付した。(争いがない。)

(三) 被告の本件手記及び本件文書の公表は、公共の利害に関する事実について、専ら公益を図る目的でなされた行為である。(争いがない。)

三  争点

1  本件手記の事実記載部分(「東南アジア研究センターは勤務環境調査改善委員会を設置し、丙山元教授のセクシュアル・ハラスメントといわれるものについての調査を行った。そして三件の比較的軽微なセクハラの事実が出てきたのだが、その過程で浮かび上がってきたのが、一人の女性の、レイプに始まるすさまじいまでのセクハラの証言であった。」「こんななかでたった一人、京都弁護士会人権擁護委員会に申し立てをしたのが、研究者の道を歩み始めた甲野乙子さん(申立書の仮名)である。数年にわたるセクハラの生々しい証言は、それが事実であるかどうか、やがて法律家の手によって裁かれることになるであろう。」という部分を指す。)の内容の真実性の有無

(被告の主張)

(一) センターは平成五年七月八日にセンター内に勤務環境調査改善委員会(以下「改善委員会」という。)を設置し、原告によるセクシュアル・ハラスメントの事実の有無について調査をした。

調査は、米澤助手が当事者らに面接することから始まり、その報告書が当時のセンター所長に提出された後に、再度、改善委員会に所属する他の四名のセンター教授らが当事者らに面接するという形で進められた。

(二) 右調査の過程で、以下の内容を含むいくつかの証言が得られ、これらが事実であることが判明した。これらの事実は、いずれも雇用の場におけるセクシュアル・ハラスメントに該当する。

(1) 原告は昭和五七年一月末ないし二月初めに京都市内のホテルの部屋において、当時学生であった甲野乙子ことSに対し性的関係を強要した。これは、東南アジアの研究者を目指していたSに対し、原告が学会におけるその地位と影響力を誇示し、暴行、脅迫を用いて強要したもので、Sの意思に反しており、レイプと評すべきものであった。さらに、同年四月にSが原告の研究室に勤務してから退職する昭和六三年三月まで、同人に対し性的関係を強要し続けた(以下、この事実関係を「甲野乙子事件」という。)。

(2) 原告は平成五年一月一二日に秘書に応募してきたA子ことJ(当時の姓はIである。)(以下「J」という。)の採用面接の際に同人に対し「疲れた私を労い、時には添い寝をすることも秘書の仕事である。」という趣旨の発言をした。これに驚いたJが秘書の採用を断ったところ、原告は当時センターに勤めていた同人の姉や同僚を辞めさせる旨を告げる等、センター所長としての人事権を楯に脅迫した(以下、この事実関係を「A子事件」という。)。

(3) 原告は同年四月中旬ころに出張先の東京のホテルの原告の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書(以下「B子」という。)に抱きつき、同人の着衣を脱がそうとしたが、同人に拒まれた(以下、この事実関係を「B子事件」という。)。

B子は直ちに帰宅し、以後センターに出勤することなく、同月三〇日付けで辞職願を郵送した。

(4) 原告は、B子とのトラブルがあった後に、出張先の東京のホテルの原告の部屋において、出張に同行していた採用間もない秘書(以下「C子」という。)に抱きつき、同人の着衣を脱がそうとしたが、同人に拒まれた(以下、この事実関係を「C子事件」という。)。

(5) 原告は同年六月初旬に京都市内のホテルのエレベーター内において採用間もない非常勤職員(以下「D子」という。)に抱きついた(以下、この事実関係を「D子事件」という。)。

D子は同月一四日の朝にセンター事務長に対し「六月一〇日に原告からセクハラを受けましたので辞めさせてください。仕事ならどんなにきつくても我慢します。けれども、愛人にはなれません。報復が怖いから一身上の都合ということで辞表を出します。けれどもこのことは一生忘れません。」と言って、辞職願を提出した。

(三) Sは、弁護士井口博(以下「井口弁護士」という。)を代理人として、平成五年一二月一四日に京都弁護士会人権擁護委員会に対し「原告、京都大学及びセンターから人権を侵害され、また人権を侵害されるおそれがある」ことを理由として人権救済の申立てをした(Sは自分の氏名に「甲野乙子」という仮名を用いた。)。

(四) したがって、本件手記の事実記載部分の内容は真実である(なお、本来は、真実性の立証対象はセクシュアル・ハラスメントの事実の有無ではなく、セクシュアル・ハラスメントを原告から受けたとする「証言」の有無である。)。

(原告の主張)

原告とSは合意で性的関係を持ったのであり、Sに対し「レイプに始まるすさまじいまでのセクハラ」に及んだことはなく、原告がセクシュアル・ハラスメントをした事実はない。

したがって、本件手記の事実記載部分の内容は真実ではない。

2  本件文書の事実記載部分(「決していわゆる『伝聞』ではない。」

という部分を指す。)の内容の真実性の有無及び本件手記の事実記載部分の内容を真実であると信ずるに足りる相当な理由の有無

(被告の主張)

(一) 被告は甲野乙子ことSを「レイプに始まるすさまじいまでのセクハラ証言」をした女性として、A子ことJ、B子、C子の前記各事件を「三件の比較的軽微なセクハラの事実」として本件手記を作成した。

また、被告は、平成六年二月一〇日付け京都新聞に掲載された河上倫逸京都大学教授の「もう一つの人権侵害―『丙山教授問題』によせて」と題する小論(以下「河上寄稿」という。)のなかで被告の本件手記を「事実関係の確認がとれていないのではないか。」と批判されていたことに反論する意図の下に、「単に噂話を流布するものではなく、記載内容を裏付ける証拠が存在し、これらに基づいて本件手記を作成したものである。」という意味で「決していわゆる『伝聞』ではない。」との表現を用いて(客観的にもそのような意味で使われていると受け取ることができる。)、本件文書を作成した。

(二) 被告は本件手記及び本件文書を作成するにあたって当事者ら(ただし原告を除く。)と面談した米澤助手ともう一人の助手から具体的事実を聴取するとともに、Sの人権救済申立書及び一連の関係資料を入手し、それまでに公表されていた新聞記事も検討したうえ、具体的事実関係を把握し、Sらの存在及び同人らの自発的証言があることを確認した。

(三) 本件手記及び本件文書が公表された時と前後して、甲野乙子ことSが原告からレイプに始まる性的関係の強要等のセクシュアル・ハラスメントを継続的に受けていたこと、これを理由として人権救済を申し立てたこと、Jらに対するセクシュアル・ハラスメントがあったこと等について公に報道、論評したものが多数存在する。

(四) 原告は右報道がされてからも黙秘ないし単なる否定という消極的態度に終始し、何ら具体的な反論、釈明を行わず、「諸縁放下」と称して出家遁世の道を選んだ。

(五) したがって、本件文書の事実記載部分の内容は真実であり、本件手記の事実記載部分を真実であると信ずるに足りる相当な理由もある。

(原告の主張)

(一) 被告は本件手記作成当時にSやJらに直接面接したところはなく、調査にあたったという米澤助手の言辞を信頼したにすぎず、まさに「伝聞」に基づいて本件手記を作成したのである。

(二) 米澤助手による調査結果は、同人が執拗に原告を糾弾していたグループの重要メンバーであったのであるから、一定のバイアスがかかっていると見て慎重な検討を要するものであるのに、被告はなんら注意していない。

また、原告に対するヒアリングも不十分かつ不適切なものであり、事実調査の名に値するものは殆どされなかった。

(三) 被告は、事実の認定にあたって、裏付け証拠を吟味するよりも、いわゆる「フェミニズム」や「女性の権利拡大運動等」とよばれる運動の論理を優先し、原告の人格に対するアプリオリな否定的評価をもって臨んでいた。

このことは、平成五年一二月一七日付け「要望書」において「四人」が人権救済申立てをしたと誤記したこと、「出張の心掛け」第七項を「添い寝」を求めるものと評価するところに顕著である。

(四) したがって、本件文書の事実記載部分は虚偽であるし、本件手記の事実記載部分を真実と信ずるに足りる相当な理由はない。

3  本件手記の論評部分(「自らの過去を暴くことになる不利益をも覚悟して申し立てに踏み切った彼女の決断の重さに感じ入るばかりである。」「丙山元教授は女性の人格の尊厳を犯したばかりでなく男性自らの人格をも卑しめたのである。」という部分を指す。)及び本件文書の論評部分(「私はこれらの事実経過にもとづいて、一連のセクハラが、女性の人格の尊厳を犯すとともに、丙山氏自身の人格を卑しめるものであった、と主張したいのである。」という部分を指す。)の相当性の有無

(被告の主張)

本件手記及び本件文書の各論評部分は、その前提となる事実関係が真実であるか、もしくは真実と信ずるに足りる相当な理由があるうえ、論評としても合理的なものである。

したがって、論評としては相当なものである。

(原告の主張)

本件手記及び本件文書の各論評部分は、その前提となる事実関係が真実ではなく、また真実と信ずるに足りる相当な理由もないのに、それらを真実と措定してなされたものである。

したがって、論評としては不相当なものである。

4  因果関係及び損害額

(原告の主張)

被告による本件手記及び本件文書の公表により原告は名誉を毀損され精神的苦痛を被った。

この慰謝料としては一〇〇〇万円が相当である。

(被告の主張)

否認ないし争う。

第三  争点に対する判断

一  争点に対する判断の前提として、本件手記及び本件文書が原告の名誉を毀損する、すなわち原告の社会的評価を著しく低下させるに足りるものかどうかについて、証拠(甲1及び2、乙1、11及び12、38及び39、46ないし54)及び弁論の全趣旨に基づいて検討する。

1  本件手記の内容について

(一) 本件手記の事実記載部分に「セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)」「レイプ」という言葉が用いられている。

「セクシュアル・ハラスメント(セクハラとも略される。)」とは未だ多義的に用いられている概念である。法的責任の根拠として用いる場合には「相手方の意に反して、性的な性質の言動を行い、それに対する対応によって仕事をするうえで一定の不利益を与えたり、またはそれを繰り返すことによって就業環境を(著しく)悪化させること」などと定義付けられるが、社会学的には、「歓迎されない性的な言動または行為により、(女性に)屈辱や精神的苦痛を感じさせたり、不快な思いをさせたりすること」「性的な言動または行為によって相手方の望まない行為を要求し、これを拒んだ者に対し職業、教育の場で人事上の不利益を与えるなどの嫌がらせに及ぶこと」とも定義付けられ、日常用語例では後者を指すことがほとんどである。

一方、「レイプ」とは「強姦」とほぼ同義の概念であるが、日常用語例としては、暴行または脅迫を手段としなくとも、女性の意に反して男性が強要した性交渉一般を指すことも少なくない。また、女性の意に反した性的な行動という側面の共通性から、レイプがセクシュアル・ハラスメントの極端な場合であると位置づけることも日常用語例では誤りであるとまではいいがたい。

ところで、社会的評価は、結局、一般通常人の受容の仕方に依拠せざるを得ないから、言葉の意味も日常用語例に従って判断するのが適切である。

したがって、「セクシュアル・ハラスメント(セクハラ)」「レイプ」の意味も日常用語例に従って理解すべきである。

(二) そうすると、本件手記の事実記載部分は、原告が女性の意に反して性的関係を強要したという事実が真実であるかのように読み手に伝わる内容を有しているから、原告の社会的評価を著しく低下させるに足りるものであるというべきであり、これを前提とした評価部分もまた同様である。

2  本件文書の内容について

(一) 本件文書の事実記載部分に「伝聞」という言葉が用いられている。

「伝聞」とは、法律的には自らが体験しないこと、他人の体験したことについての供述を意味するが、日常用語例では「単なる噂」「確たる根拠のないこと」という意味でも用いられる。とくに本件文書では前後の文脈に照らすと、「事実関係の調査をしていない」という意味で使われていることが客観的にも明らかである。

したがって、本件文書の事実記載部分での「『伝聞』ではない。」という表現は「事実関係の調査をしていないのではない。相当の根拠に基づいての記載である。」という意味で理解するべきである。そうすると、本件文書の事実記載部分は、本件手記の事実記載部分の内容を補強するものであるから、原告の社会的評価を低下させるに足りるものであるというべきであり、これを前提とした評価部分もまた同様である。

二  争点1について判断する。

1  前提となる事実、証拠(〈省略〉)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(一) 原告とSの関係に関する事情

(1) Sは昭和三五年四月に生まれ、昭和六一年八月に現在の夫と婚姻した(なお、結婚式には原告や原告の研究室の関係者を呼んでいなかった。)。

昭和五五年四月に大阪外国語大学インドネシア語学科に入学し、卒業するまで同大学の学生寮に住んでいた。そして、将来は東南アジアに関する研究をしたいとの目標をもっていた。

(2) Sは大阪外語大学三年生の時の昭和五七年一月末に原告が非常勤講師として同大学で行った特別講義に出席した。その日の講義の終了後、同大学の学生食堂で偶然、原告と個別に話す機会を得て、東南アジア研究の話を中心に会話が弾み、帰路途中の千里中央駅付近の喫茶店でも話を続け、自分が将来は研究者になりたい旨を原告に伝えた。

Sは原告に自分の住所と電話番号を教え、再会を約した。

(3) 後日、Sは、阪急電鉄梅田駅改札口付近にて原告と待ち合わせ、大阪の郷土料理の店で夕食を共にしながら、原告の東南アジア関連の話を聞いた。その後、Sは「もう少し話をしたい。」という原告の求めを翌日の試験を理由に断ったが、また会うことを約して帰宅した。

原告はSに対し、付近の地理に不案内なSのために前記梅田駅付近まで先導して案内する等、その日は終始紳士的な対応をしていた。

(4) Sは同月末ないし翌二月初旬の午後五時ころ前記駅改札口で待ち合わせ、大阪市所在の新阪急ホテルの地下街で夕食を共にした。その後、原告は「場所を変えて話をしよう。」とSを誘った。Sは原告に付いて同ホテルのラウンジに行き、酒を飲みながら話を続けた。

原告はその日の午後八時ころにSに対し「今日は疲れているから部屋で話のつづきがしたい。」と切り出し、自分がチェックインしている同ホテルの部屋まで来るよう申し向けた。Sは原告の申出に応じ、原告とともに同ホテルの部屋へ入った。

(5) 部屋に入り、椅子に座ってからも、原告の東南アジア研究の話が続いた(このとき、部屋は施錠されていなかった。)。

ところが、突然、原告が椅子から立ち上がり、Sの手を握ったので、Sは原告の手を咄嗟に振り払った。すると、原告はSの正面に立ちはだかって同人の行く手を阻み、「何で振り払った。」と怒鳴った。Sが「先生(原告)は男の人だから、男の人からいきなり手を握られたら振りほどいて当然である。」と答えると、原告はSを平手で数回殴り、「自分は他の男とは違うのに、他の男と同じ接し方をするのは失礼だ。」などとSを罵倒し始めた。

Sは原告の豹変に驚き、「やっぱり男の人だから。」と泣きながら反論したが、原告によって罵倒、殴打を繰り返され、反論も止め、手も握られるままになった。

原告はSの手を握りながら「相手が自分であるから(手を握られても)正しいのだ。」と同人を説得しはじめ、同人の正面から横に回って肩を抱こうとした。Sが体をよじると、再び罵倒と殴打を繰り返し、同人が抵抗しなくなったことに乗じて、肩を抱き正面から同人を抱きしめ、キスをするに及んだ。

その後、原告は自ら部屋の奥のベッドの上に座り、Sに対し自分の横に来るよう求めた。Sが躊躇していると、「まだわからないのか。何もしないからここに来て座れ。」と怒鳴りつけ、同人を自分の隣に座らせた。

すると、原告は自ら着衣を脱ぎ、Sにも「君も裸にならないと対等ではない。」と言って着衣を脱ぐことを求めた。Sは躊躇したが、原告が幾度となく語気荒く求め、また殴るぞという姿勢を示してきたので、着衣を少しずつ脱いでいった。原告はSが下半身に何もつけない状態になるや否や、同人の上にのしかかり、その日のうちに性交渉を二度持つに及んだ。

二度目の性交渉と前後して、原告はSに対し「性行為は対等な人間同士がやることであり、君(S)と僕(原告)が性的関係を持ったことは東南アジア研究を目指す者同士の同志的連帯の証である。」などと言い、研究者になるために自分が日常生活に至るまで同人を指導することの同意を求めた。Sは黙り込んでいたが、原告が「自分の言葉には責任をとれ。」などと詰問してきたため、結局原告の指導を受けることに同意した。

その後、Sは脱いだ着衣もつけないまま同室に宿泊した。

(6) 翌日、Sは原告と午前一〇時ころに同ホテルをチェックアウトし、阪急電車にて京都市内まで同行し、次に会う日時の約束をして別れた。

この日以降、Sは原告に殴られた跡の治療にも行かず、約二か月ほどの間は、原告との約束の日に約束の場所には赴いていたけれども、それ以外は人目を避けて寮の自室に閉じこもりがちになり、大学の授業にでないことも多かった。また、原告と性的関係を持ったことについては誰にも口外することはなかった。

(7) Sは「研究者になるために僕の研究室で働きなさい。」という原告の勧めに従い、同年四月からアルバイトとして、大阪外国語大学を卒業した後の昭和五九年四月からは事務補佐員として昭和六三年三月まで、センターの原告の研究室に勤務した(給与は大学からの公的なものと原告からの私的なものを一括して原告から支払われていた。)。この間、Sは何回か原告の研究室の勤務を辞めたい旨原告に申し入れたが、その度に原告が激怒し、殴られるなどして辞意を撤回させられた。

Sは、原告の研究室に勤務しながら、原告が自分自身を「世界の丙山」と称し、自分に批判的な言動をする研究者に対し人事上の嫌がらせを執拗にする様を目の当たりにしていた。原告との性的関係も継続され、性交渉が原告の宿泊していたホテルや原告の研究室において、仕事に託つけて持たれるようになり、Sが現在の夫と婚姻した昭和六一年八月以降も続いた。

(8) Sは昭和六三年三月ころに、原告の研究室でアルバイトをしていた女子大学生が原告から性的関係を求められていたこと、そして自分と原告との関係も第一秘書のKが了知していたことを知り、自分に対する原告の対応が研究室ぐるみで行われていたと認識し、原告の研究室を去る決意を固めた。

Sは同月一六日に夫に対し自分と原告の関係について初めて告白するとともに、その日以降は原告の研究室に出勤することを拒み、そのまま同月末に退職扱いになった。

これ以降、Sと原告との性的関係は解消した。

(9) その後、Sは大阪大学法学部を卒業し、同大学大学院修士過程に進んだ。しかし、原告やその関係者との接触を避け、従前から希望していた東南アジア研究の道を選択しなかった。

(二) 原告とJの関係に関する事情

(1) Jは平成四年一二月当時には京都府庁でアルバイトをしていたが、原告からJを秘書として採用したいとの申出がセンターに勤務していたJの姉を通じてあった。

そこで、Jと原告、Jの姉、原告の所長秘書であるMは平成五年一月八日に京都市所在の京都グランドホテル内のフランス料理店にて面接を兼ねた会食をした。その際、原告はJに対し、あと二、三度会ってから採否を決めること、次の面接日時と場所は後日姉を通じて知らせることを伝えた。そして後日に次の面接日時が同月一二日午後八時半でJR東海京都駅新幹線改札出口で待っているよう伝え、Jもこれを承諾した。

(2) Jは同月一二日午後八時半に前記駅改札口に行き、東京出張から戻ってきた原告と再会した。その時、原告がJに対ししきりに疲労を訴え、自分の話相手になってほしい旨述べたため、Jは「私でよかったら話相手になります。」と応じた。

その後、Jは原告に付いて歩いて前記ホテルに行き、同ホテルの地下のバーに向かった。地下の階段を下りて行く途中で、原告はJに対し「私がこういうふうに疲れたときは、『先生、今日は一緒に飲みに行きましょう。』とか、『先生、今日は添い寝をしてさしあげましょう。』とか言わなければいけない。それが秘書の役割だ。」と言った。

Jは同バーに入った後、原告に対し秘書の仕事は自分にとっては負担が大きいので辞退する旨述べた。

すると、原告はJに対し「秘書としての事務処理の能力で雇うんではない。ハートの付き合いをしてもらうために雇うのである。能力もないし、とびきり美人でもないのに雇ってやろうと言ってるのに、おまえは断るのか。姉やMに申し訳ないと思わないのか。」と怒り始めた。Jが「私には恋人がいるから、先生(原告)とはハートの付き合いができない。」と言うと、「男がいるような妹を紹介したお姉さんもお姉さんだ。お姉さんとMさんには責任をとってもらう。私は所長だから辞めさせることは簡単なんだ。」とたたみかけた。

Jは原告の右言動を聞いて、その日は秘書採用についての最終的な返答を保留して、午後一二時ころに原告と別れた。原告は別れ際にJに対し次の休日ころに再度会いたいから予定を空けておいてほしいと言った。

(3) 帰宅後、Jは自分の部屋にこもって泣いていたところ、同人の母が事情を察して姉に電話をした。そして、電話でJ自らが姉に対し、その日の前記事情を説明した。

Jの姉は話を聞いて憤激し、翌日、センターに出勤し、Mに前日の前記事情を説明した後、原告に対しJの秘書採用を断り、自分も責任をとって辞職する旨申し出た。

Jの姉は前田成文センター教授(現姓は立本である。)(以下「前田教授」という。)にも前記事情を話し、同教授から高谷教授に話が伝わった。高谷教授はJの姉に対し原告に謝罪させる旨を電話で伝えた。

その後、謝罪の方法として原告の念書をとることになった。

(4) 原告は同年二月二五日に前記ホテルにおいて、高谷教授、前田教授、M、Jの姉の立会いの下で、Jと会い、自らが署名した念書(その内容は別紙五記載のとおりである。以下「念書」という。)を渡し、「意思の疎通がうまく行かず、誤解が生じたのを深くおわびします。」と言って謝罪した。しかし、Jに対する言動の詳細については具体的に釈明しなかった。

(三) 改善委員会の設置等の経緯

(1) 同年六月一四日にD子がセンター事務長と同庶務掛長に対し原告からセクシュアル・ハラスメントを受けたので退職したい旨訴え、辞職願を提出したことをセンター職員らが目撃した。翌日には原告の研究室の私設秘書全員が辞職願を提出した。

右事情を聞いた米澤助手は、すでに前記(二)(3)及び同(4)の認定事実の概要(A子事件に相当する。)を知っていたこともあり、もはや原告の個人的問題では済まないと考え、他のセンター女性職員一〇名とともに、同月二一日付けで「センター女性職員有志一同」名義で所長代理、副所長、各部門長、各部門主任宛に「センターの事務補佐員の妹(J)に関する事件及びセクシュアル・ハラスメントを受けたと訴えて辞職した非常勤職員(D子)の事件の真相を究明し、断固たる処置をとってほしい。七月八日までに回答されたい。」という趣旨の質問状(以下「六月質問状」という。)を提出した。さらに、同年七月五日には非常勤職員を含むセンターの全所員の自宅に六月質問状の写しを添えて賛同と支援を求める書簡を送付した。

六月質問状を受領した高谷教授らは部門長会議及び拡大部門長会議(センターの全教授で構成される非公式な懇談会で、教授懇談会とも呼ばれていた。原告は出席していなかった。)で対応を検討し、六月質問状へ対応すべく勤務環境一般を改善することを主な目的とする改善委員会を設置すること、同委員会は原告を除く全センター教授で構成され委員長を高谷教授とすることを決した。そして、高谷教授は同年七月八日の所員会議において、右決定について報告し、「九月ころまでには何らかの回答が出せると思う。我々に任せてほしい。」と出席した職員に伝えた。

(2) 米澤助手は右報告を承け、同月一〇日に女性職員数名とともに井口弁護士に相談し、原告個人に対するものも含めてもう一度質問状を出すこと、そのためには被害にあったとされる女性らからの事情聴取が必要であること等を話し合った。

米澤助手はこのころまでにはB子事件、C子事件、D子事件についても情報を得ていた。

(3) 原告は六月質問状が提出された以降の経緯を高谷教授や山田センター助教授(以下「山田助教授」という。)から聞き及び、同年七月一五日に臨時に開催された教授会の場で所長を辞任したい旨申し出て承認された。

このころに高谷教授は「改善委員会として調査や処分等をすべきではなく、個人の良識に解決を委ねるべきである。」という個人的見解の下に、数名の改善委員会委員とともに、原告が以下の三つの条件を実行して所長を辞任することで事態を収拾しようとした。

①原告はセンター全職員の前で一連の混乱について謝罪する。

②原告は被害者とされる女性らに対し個別的に会って真摯に対応し解決する。

③原告は再びこのようなことを起こさないことを約する。

(4) 同月二二日に臨時所員会議が開かれ、高谷教授から原告より所長辞任の申出があったこと、そしてこの申出が教授会で承認されたことが報告された。

米澤助手は、右報告のなかに原告によるセクシュアル・ハラスメントについて触れるところがなかったことを不満とし、再び他のセンター女性職員らとともに、同月二六日付けで「センター女性職員有志一同」名義で改善委員会の全委員宛に「改善委員会はこれからも事実関係の調査を続けるのか。原告が所長辞任を申し出た理由は自らのセクシュアル・ハラスメントの責任を認めたものか。早急に回答されたい。」という趣旨の質問状(以下「七月質問状」という。)を提出した(同日にこの質問状の写しと賛同と支援を求める書簡を非常勤職員を含むセンターの全職員に送付した。)。

七月質問状を受領した高谷教授は同月三〇日午前に所員会議を開き、センターの全所員に対し、原告の所長辞任の申出が同月二九日の協議員会でも承認されたこと、辞任の理由は他の公務が多忙であること及びセンター内が混乱していることの責任を認めてのことであること、そして改善委員会としてはこれ以上の調査はしないことを伝えた。その一方で、同日午後には女性職員に対し今後は非公式に懇談を続けていくことを提案した。

(5) 米澤助手は高谷教授の「非公式の懇談を続ける」との右提案を受け入れ、同年八月中に二度の懇談を持った。

他方、米澤助手及びセンター女性職員数名は井口弁護士と相談し、原告個人に対する質問書を出すことを決め、事件の被害者とされる女性ら及びD子から被害を訴えられたとされるセンター事務長及び同庶務掛長に事情を聴いて、原告宛に質問書を出すことについて事件の被害者とされる女性らの了解を得る作業に取りかかった。その後、A子ことJ、B子、C子の同意を得られたとして、井口弁護士を代理人として、同年八月二〇日付けで「被害者一同」及び「丙山太郎教授による性的暴力、セクシャル・ハラスメント事件被害者を支援する会一同」の両名義を併記し、原告宛に「これまでのセクシュアル・ハラスメントの事実を認め被害者とされる女性らに謝罪するのか。その責任のとり方として、センター所長職のみならず全ての公職を辞するつもりがあるのか。同月二七日までに代理人宛に回答されたい。」という趣旨の質問書(以下「八月質問書」という。)を送付した。

しかし、右期限を過ぎて九月になっても原告から返答がなかった(同年一〇月六日にあった。)ため、井口弁護士と相談し、文部大臣宛に弁護士名で質問書を送ることを決めた。

(6) 原告は同年八月三一日に所長辞任の正式な発令を受けて所長職を辞任した。そして、同年九月九日の所員会議において、所長辞任の挨拶をし、混乱が生じたことについて遺憾の意を表した。その後、高谷教授がこの謝罪をもって決着がついたことにする旨の発言をした。

原告は右挨拶に前後して、元京都大学総長であった岡本道雄氏(以下「岡本元総長」という。)、同人から紹介を受けた徳山詳直瓜生山学園理事長(以下「徳山理事長」)、高谷教授、古川久雄センター教授(以下「古川教授」という。)と、折りを見て、自分の今後の対処の仕方について相談した。そして、教授職を辞することも考えたが、手続が迂遠なこと及び翻意してほしいとの高谷教授の助言もあり翻意した。

(7) 同年九月一日には原告の後任に坪内良博センター教授が就任した(以下「坪内所長」という。)(この段階で所長が改善委員会委員長も兼務することになった。)

坪内所長の下で、遅くとも同月半ば過ぎには、高谷教授が設置した職員との非公式な懇談の場が改善委員会に付属する公的な機関に改められ(以下「小懇談会」という。)、座長には山田助教授が就任し、前田教授、米澤助手も委員となっていた。

(四) 改善委員会による調査及び甲野乙子事件の発覚等の経緯

(1) Sはかつての同僚の中村香江からの手紙でセンターの女性職員有志が原告のセクシュアル・ハラスメントについて内部告発をしていることを知り、同年九月二四日にセンター編集室に電話をし、「元原告の研究室の秘書」と名乗って、自分と原告との性的関係等の事情を米澤助手に告白した。

米澤助手は右告白をふまえ、同日午後に開かれた小懇談会において、山田助教授に対し原告のセクシュアル・ハラスメントの事実の有無について調査したいと申し出た。

その後、米澤助手は同月二八日にSと直接会って、四時間以上にわたってSの話を聴いた。

(2) 米澤助手は他のセンター女性職員数名とともに、井口弁護士を代理人として、同月二七日付けで文部大臣(当時は赤松良子であった。)宛に「文部省は原告のセクシュアル・ハラスメントの事実について把握しているのか。事実関係を調査するのか。もし事実と判明した場合には原告に対しいかなる処分をするのか。同年一〇月八日までに代理人宛に回答されたい。」という趣旨の質問書(以下「九月質問書」という。)を送付した。

この質問書について文部省は同年一〇月一日に京都大学に照会し、回答を求めてきた。そのため、坪内所長は同日に高谷教授の研究室において高谷教授と前田教授の立会いの下、原告に対し九月質問書に記載してある事実関係を問い質したが、原告は事実関係は存在しない旨の弁明をした。同日午後四時ころには米澤助手を呼び、文部省から連絡を受けたことを伝えた。このとき、米澤助手は坪内所長に対し原告のセクシュアル・ハラスメントについて事実関係を調査したい旨を申し出た。

坪内所長は同月四日に米澤助手に対し、教授会及び改善委員会に諮り、米澤助手の事実関係の調査を所長の責任で公的なものとすることを決めたので、調査結果を報告書としてまとめて所長に提出してほしい旨の説明をした。

(3) 米澤助手は同月下旬までに電話でSらに対し、センターの公的な調査が開始されるので協力してほしい旨伝えた。そして、S、J、C子の各陳述書(いずれも署名押印はなかった。)を同年一一月上旬までに入手した。また、それまでに米澤助手自身もB子の聴取書(内容はB子が確認したものである。)及びセンター事務長ら関係者の証言メモを作成した。そして、これらに基づいて作成した調査報告書と右陳述書等を同月八日に坪内所長に提出した。

坪内所長は同月一一日に改善委員会を開いて、米澤助手が提出した調査報告書等を検討した。その結果、改善委員会として、被害にあったとされる女性らの実在と証言の自発性を確認するために、海田能宏センター教授(以下「海田教授」という。)、土屋健治センター教授(以下「土屋教授」という。)、前田教授、福井捷郎センター教授(以下「福井教授」という。)の四名(以下「海田教授ら」という。)が二名一組になって面談調査をすることを決定した。

(4) 米澤助手は坪内所長から右決定内容を聞き、Sらに面談に応じるよう協力を求め、S、J、B子の同意を得た。

Sは同月一五日に京都市所在の京都センチュリーホテルのロビーにて米澤助手の立会いの下で、海田教授と土屋教授と面談した。その際、Sは提出した陳述書が真に自分が作成したものであるなどと話した。

B子は同月一六日の午前に同人の自宅にて同人の母親と米澤助手の立会いの下で、海田教授と前田教授と面談した。その際、B子は提出した聴取書が真に自分が体験したことを記載してあるなどと話した。

Jは同日の晩に京都市内の喫茶店にて同人の姉と米澤助手の立会いの下で、海田教授と福井教授と面談した。その際、Jは提出した陳述書が真に自分が作成したものであるなどと話した。

坪内所長を始めとするセンター教授らは、自分たちでもセンター事務長らに事情を聴いたり、面談をした海田教授らからの調査結果を聞いて、「原告は潔白ではないのではないか。」との心証を持つに至ったものの、「教授会には司法権がない。原告個人の誠意ある対応を待つしかない。」という消極論を唱える者が大勢を占めた。坪内所長も同月二〇日すぎに米澤助手に対し「問題が非常に重大なので、すぐには結論が出ない。対処するからしばらく待ってほしい。」と答えるにとどまった。

(五) Sによる人権救済の申立て及び原告の対応等の経緯

(1) Sは自分が調査に応じたのにセンターが全く原告に対する処分をする様子がなかったので、井口弁護士にしかるべき対処方法を相談した。そして、自分の家族のプライバシーの保護と時効の壁を乗り越えることを考慮して、匿名で人権救済の申立てをすることを決めた。

そして、井口他六名の弁護士を代理人として、同年一二月一四日に京都弁護士会人権擁護委員会に対し「丙山太郎京都大学教授、京都大学及びセンターから人権を侵害され、また人権を侵害されるおそれがある」ことを理由として、「甲野乙子」という仮名を用いて人権救済の申立てをした。

Sの右申立ては同月一七日付け読売新聞朝刊及び同月一八日付け京都新聞でも報じられた。

(2) 原告は同月一五日にスウェーデンヘの出張から帰国した後、事態の対処について徳山理事長と相談し、教授職を辞任して出家することを決意した。

高谷教授は同月一七日に徳山理事長から原告の進退についての決意内容を電話で報告され、これを古川教授に伝えた。そして、古川教授が原告と連絡をとり、同月一八日に京都グランドホテルで高谷教授も含めて三人で会った。この席で高谷教授は原告の辞職及び出家を歓迎した。

原告は同月一九日に、高谷教授を通じて、坪内所長に辞意を伝えた。これを承けて、同日に教授懇談会が開かれ、坪内所長が翌二〇日に古川教授の立会いの下で原告と面談し、セクシュアル・ハラスメントについての事実の有無と辞職する意思の有無を確認することが決定され、同日中に古川教授を通じて原告に伝えられた。

(3) 原告は同月二〇日に赤松文部大臣宛の「一身上の都合」を理由とする辞職願を高谷教授を通じて坪内所長に提出した。

坪内所長は同日午後八時ころに原告の宿泊していた前記ホテルに原告を訪ね、古川教授と高谷教授が同席するなかで、セクシュアル・ハラスメントの事実の有無と辞意の有無の確認、辞職までの手続等についての説明等を、ビールと寿司を飲食しながら、約四〇分程度行った。その際、原告はセクシュアル・ハラスメントの事実について否定した。

その後、原告は同月二一日に臨済宗東福寺専門道場にて居士としての修行生活に入った。

センターでは、同月二七日の教授会と協議員会で被告の辞職が承認され、同月三一日付けで辞職辞令が発せられた。

原告の辞職及び東福寺への入山は同月二二日付け毎日新聞夕刊、同月二三日付け読売新聞、同月二三日付け朝日新聞、同月二八日付け毎日新聞で報じられた。

以上の事実が認められる。

2  以上、認定したところに照らし、判断する。

(一) 前記認定のとおり、センターは平成五年七月に改善委員会を設置した。

当初の改善委員会は、六月質問状に対する「回答」として、形を取り繕ったという側面が強く、従来の非公式な教授懇談会と変わりのないものであるのが実態であったと認められる。しかし、従前の職員との非公式の懇談の場を「小懇談会」とし、これを改善委員会の付属機関と位置づけるようになり、米澤助手の調査を公認したころから、原告のセクシュアル・ハラスメント疑惑についての調査をすすめる実体を有したものに変化したと認められる。

したがって、坪内所長がした平成五年一〇月一日及び同年一二月二〇日の原告に対する面談は、所長としての側面と改善委員会の委員長としての側面を併せ持った調査であったというべきであるし、坪内所長の公認の下で米澤助手が同年一〇月から一一月初旬にかけて行った調査を基に同委員会所属の海田教授らが同年一一月一五日にSと、同月一六日にJ及びB子と面談したのは、改善委員会としての調査であったというべきである。

(二) また、前記認定のとおり、Sは「甲野乙子」という仮名を用いて同年一二月一四日に京都弁護士会人権擁護委員会に人権救済の申立てをした。

そして、同人が昭和五七年一月末ないし二月初めころにホテルの一室において、性的関係を原告に強要されたことは、原告に性交渉と直接関連する暴行、脅迫をしたところが認められ、原告の威圧の下にSの意に反して行われたものであるから、「レイプ」というべきものである。

さらに、同年四月から昭和六三年三月まで原告の研究室に勤務していた間にも原告から強要され続けた性的関係は、原告が東南アジア研究の第一人者として有していた学会での強い発言力と日本における数少ない東南アジア研究の拠点であるセンターの実質的な人事権とを有していた教授であり、一方、Sが東南アジア研究をセンターにて行いたいという希望を持つ学生ないし非常勤職員であり、原告の意向に逆えば、解雇、推薦妨害、学会追放等の不利益を受け、自らの研究者としての将来を閉ざすことになりかねないという構図のなかで、暴力的行為を伴いつつ、形成、維持されたものであったといわざるを得ない。それゆえ、右関係の形成、維持は「性的な言動または行為によって相手方の望まない行為を要求し、これを拒んだ者に対し職業、教育の場で人事上の不利益を与えるなどの嫌がらせに及ぶこと」というセクシュアル・ハラスメントに該当するというべきである(しかも七年にわたって継続された。)。

したがって、甲野乙子事件は真実であるというべきである。

(三) 原告はSとの性的関係は合意に基づくものであったとし、その理由を以下のとおり主張する。

① Sと原告は同郷(熊本県)出身であった。

② Sは、原告と性的関係を継続していた当時、原告宅を幾度となく訪れ、原告の妻と会い、衣服のプレゼントを受けたこともある。また、原告より継続して学費をはじめとする金員の提供も受けていた。昭和六一年の結婚式には原告の研究室の職員も出席した。

③ Sは原告と初めて出会った日(昭和五七年一月ころ)に次に会う約束をし、二回目には夕食を共にしたうえ、また次に会う約束をしていること、三回目の約束の日にホテルにて原告と酒の席を共にした後、(原告の誘いを受けたにせよ)自らの意思で原告がチェックインしていた部屋に赴き、部屋にチェーンがかかっていなかったにもかかわらず、原告より「ベッドに来い」と言われても逃げ去ることをせず、着衣も自ら脱ぎ、二度の性交渉を拒むことなく、翌日まで衣類を身につけなかったこと、翌日に原告と共にホテルをチェックアウトし、京都市内まで原告に同行し、次に会う日時の約束をして別れ、再び、約束どおりにその場に赴いたこと、その数カ月後の昭和五七年四月から六年間にわたり原告の研究室に勤務し、この間、原告と性的関係を継続しており、このことを原告の研究室を辞めるまで親しい者にも訴えず、現在の夫に明かしたとする昭和六三年から平成五年までの間も何らの措置もとらなかったこと、昭和五八年から現在の夫と結婚するまで京都市伏見区のマンションから転居しなかったこと、Sが原告と初めて性的関係を持った昭和五七年当時、既に現在の夫と面識を得ており、同じ寮に居住していたことを総合すると、原告との性的関係がSの意思に反していたとはいえない。

④ S証言のうち「一〇数回殴打された」という部分は「後日そのための治療は受けなかった。」という同証言部分に照らし信用できない。仮りに多少の暴力的行為があったとしても、合意に基づく性的関係においても多少の拒否的言動や暴力的行為が随伴することからして、それのみで原告との性的関係がSの意思に反していたとはいえない。

⑤ Sと原告の関係は七年にわたって続いたのであり、告発は同人が原告の研究室を退職してから五年以上後のことであるから、その「意に反した関係であった」という主張は虚偽である(意に反しているなら直ちに告発があるというのが経験則である。)。

しかし、Sが熊本県出身であるとの証拠はなく(S証言ではこれを明確に否定し、甲6も現在の夫が熊本県出身であることを示すのみである。)、Sが原告の研究室に勤務していた当時(すなわち、原告と性的関係を継続していた)当時、原告の妻である丙山春子から衣服のプレゼントを受けたり、原告より継続して学費をはじめとする金員の提供(給与を除く。)も受けていた事実、及び昭和六一年の結婚式に原告の研究室の職員が出席した事実は、いずれも認めるに足りる証拠がない。

また、原告は三回目の約束の日に、ホテルの部屋に入ってSの手を握る行為に出るまでは、極めて紳士的な対応でSに接していたのであり、しかも、Sにとっては、興味深い「東南アジア」の話を熱っぽく語る大学教授として映っており、一学生として、これまで二回の食事代を原告に出してもらっていたこともあって、申出を無下に断るのは失礼だと考えて、原告の申出に応じてホテルの部屋に行った(S証言)ことはあながち不自然な行動とはいえず、これをもって原告との性的関係を望んだ、あるいは承諾したというには足りない。また、Sがチェーンの掛かっていないドアから逃げださなかったことは、原告がSの前に立ちはだかって、抗おうとしたSを罵倒し、その頭部を平手で数回殴りつけるといった、それまでの紳士的な対応とはうってかわっての突然の粗暴な対応に出たため、驚愕混乱して冷静な対応をとることができなかったことによるものであり(S証言)、これも不合理であるとはいえない(原告は殴打の事実を否定するが、治療に行かなかったからといって、傷害の程度が重大ではなかったといい得ても、殴打の事実がなかったとはまではいえない。原告との意に反した性交渉が発覚することを恐れたSの場合はなおさらである。)。そして、再度、罵倒、殴打され、理詰めの問いに原告の納得のいく答えを強要される状態にあったのであるから、原告の要求がSにとって逆らうことのできないものに感じられたとしても不自然ではなく、逃げ去ることもせず、着衣も自ら脱ぎ、二度の性交渉を拒むことがなかったとしても、その事実をもって合意によるものだとはいいがたいところである。

その後、翌日まで衣類を身につけなかったこと及び翌日に原告と共にホテルをチェックアウトし、京都市内まで原告に同行し、次に会う日時の約束をして別れ、再び、約束どおりにその場に赴いたことも、意に反した性交渉をしてしまった自分が惨めに感じられ、恥ずかしく、誰にも相談できず、呆然として日々を過ごしたというSの証言に照らすと、これをもってSが原告との性交渉に合意していたとはいえない。

その数か月後の昭和五七年四月から六年間にわたり原告の研究室に勤務し、昭和五八年から現在の夫と結婚するまで京都市伏見区のマンションから転居しなかったことは、原告との関係を肯認し、原告について東南アジア研究をしたいという意思の表れとみることもできなくはないが、何回か原告の研究室の勤務を辞めたい旨原告に申し入れたが、その度に原告が激怒し、殴られるなどして辞意を撤回させられたり、勤務中に自分に批判的な言動をする研究者に対し人事上の嫌がらせを執拗にする原告の様を目の当たりにしていたことも考え合わせると、Sの右のような行動は、研究者の道に進みたいという将来の希望をつなぐため、原告の求める性的関係をもはや明確に拒むことができない精神状態になってしまっていたことによるものとみるのが合理的である。

さらに、Sが昭和五七年当時、既に現在の夫と面識を得ており、同じ寮に居住していたことをもって、すでに現在の夫との間に性的関係が形成されていたとは到底いいがたいし、これを裏付ける証拠もない。

そうすると、原告が指摘する事情は、いずれも原告とSとの性的関係がSの意に反して行われたとの前記認定を左右するものではないというべきである。

なお、強姦の被害者が意に反した性交渉をもった惨めさ、恥ずかしさ、そして自らの非を逆に責められることを恐れ、告発しないことも決して少なくないのが実情であって、自分で悩み、誰にも相談できないなかで葛藤する症例(いわゆるレイプ・トラウマ・シンドローム等)もつとに指摘されるところであるから、原告と性交渉を持った直後あるいは原告の研究室を退職した直後にSが原告を告発しなかったことをもって原告との性的関係がその意に反したものではなかったということはできない。

したがって、原告の右主張は理由がない。

3  まとめ

してみると、本件手記の事実記載部分のうち、甲野乙子事件をもって「レイプに始まるすさまじいまでのセクハラ」「数年にわたるセクハラ」に該当するものとし、「東南アジア研究センターは勤務環境改善委員会を設置し、丙山元教授のセクシュアル・ハラスメントといわれるものについての調査を行った。」「その過程で浮かび上がってきたのが、一人の女性の、レイプに始まるすさまじいまでのセクハラの証言であった。」「こんななかでたった一人、京都弁護士会人権擁護委員会に申し立てをしたのが、研究者の道を歩み始めた甲野乙子さん(申立書の仮名)である。数年にわたるセクハラの生々しい証言は、それが事実であるかどうかやがて法律家の手によって裁かれることになるであろう。」という部分については真実であるとの証明がなされたというべきである。

また、「三件の比較的軽微なセクハラの事実」のうちの一件としてのA子事件も真実であるとの証明がなされたというべきである。

三  争点2について判断する。

1  前提となる事実、証拠(〈省略〉)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

(一) 被告の事件認知

(1) 被告は平成五年一一月二九日から一二月二四日まで京都大学の大学病院に検査のため入院をしていた。入院中の同年一二月一七日に同日付け読売新聞朝刊に「京大教授がセクハラ行為」との見出しで元センター職員の甲野乙子が人権救済の申立てをした旨の記事が掲載されているのを発見した。

被告は同記事を読み、これは女性の研究者の人権にかかわる問題であるから懇話会として何らかの行動に出るべきだと考え、かつ同記事では秘書名、教授名とも判明しなかったので、事実に関する調査等の必要を感じ、直ちに懇話会名義で井村京都大学総長宛に同日付けで「調査委員会をつくってセクシュアル・ハラスメントの事実を明らかにして、その結果を公表してほしい。」という趣旨の要望書を作成して提出した(ここでは人権救済の申立てをした人数を「四人」と記載していた。)。

提出前には、伊藤操子京都大学農学部助教授(以下「伊藤助教授」という。)や他の懇話会幹事に懇話会の名前で文書を出すことを了承してもらい(この段階では申立てをした人数を「四人」と記載することについては異議が出なかった。)、また、京都弁護士会人権擁護委員会の委員長であった谷口弁護士の事務所へ電話をして人権救済申立ての事実があることを確認した。

(2) 被告は同日中に訴えられているのは原告ではないかとの情報を同僚から得た。そのため、同日中に北野康子センター助手(以下「北野助手」という。)に電話をし、原告が元女性秘書にしたと言われているセクシュアル・ハラスメントについて懇話会代表として調査したいので詳しい事情を聞かせてほしいと伝えた。

北野助手は米澤助手に対し自分と共に被告を訪ねてほしい旨頼んだ(被告は米澤助手について当時は面識がなかった。)。米澤助手は北野助手の依頼を受け、同日午後七時ころに前記病室に被告を訪ねた。そこには既に北野助手と谷井陽子(当時、懇話会の幹事をし、事務局を担当していた。)が来て、六月質問状、七月質問状、原告の所長辞任を報じた新聞記事等を渡していた。

米澤助手は持参した八月質問書、九月質問書、Sの人権救済申立書(いずれも写しである。)を基に、Sらの実名を伏せつつ、個々の事件の概略、センターの公的調査の経過(改善委員会が組織されたこと、米澤助手が改善委員会に協力し、坪内所長の了解と承認を得て個々の被害者とされる女性らに会って、それぞれ具体的な被害事実を調査したこと)、そして調査結果が真実であると考えている旨を被告に伝えた。その後、同月二〇日に資料を人文科学研究所の被告の研究室に届け、同月二二日と同月二四日には編集室に訪ねて来た被告に資料を手渡したりなどして、説明をより詳しく行い、被告の質問にも手持ち資料に基づいて応答した(ただし、米澤助手が被害者とされる女性らのプライバシー保護に配慮していたため、被告も被害者とされる女性らの氏名を特定することはしなかった。)。

(3) 被告は同月一七日から同月二四日までの間に米澤助手から、八月に新聞に出た所長辞任の記事、六月質問状、七月質問状、八月質問書、九月質問書、Sの人権救済申立書を入手した。

(4) 被告は以下の内容を米澤助手から説明を受けた。

① 甲野乙子事件については、人権救済申立書記載の内容とほぼ同じ内容の話(大阪の新阪急ホテルで原告と会い、三回目にホテルの部屋で話をしたいと言われて入ったところ、突然、手を握られて、そして、ものすごく殴打されて、何が何かわからないうちに強姦された。その後、強姦をされて自分を失なった状態の中で、原告に秘書になるように強制され、秘書を続けるなかで何度も性的関係を強要された。)を聞いた。

② A子事件については「秘書に採用するからということで京都グランドホテルに呼び出され、『秘書は添い寝もしなくてはいかん』等の非常に性的な嫌な話をされた。そのため、採用を辞退したところ、断るなら所長の職権でセンターに勤めていた彼女の姉の馘を切ると言われた。それで彼女は非常に憤慨し採用を辞退したが、その後、ある教授が間に立って原告が謝罪のための文書を出すことになった。その時、彼女はセクシュアル・ハラスメントがあったということについて謝罪して欲しいと考えていたが、原告はそういう言葉が出ることを嫌って『あなたの心を傷付けた』という抽象的な表現になった。」という概要であった(米澤助手からこの話を初めて聞いた時には「念書」は見ていなかった。)。

③ B子事件及びC子事件については「B子は原告の出張に同行させられて、帝国ホテルで、密室の中で突然、意に反して抱きつかれて、足を掛けられ、あるいはボタンを外されそうになった。B子は原告が講演に出た隙に自分の母に電話をし、原告から預かったものも置いて、そのまま帰った。C子もB子の事件の直後に原告の出張に同行させられて、帝国ホテルで原告にB子と同じようなことをされた。」との概要であった。

米澤助手はB子の母に直接会い、大変憤慨しているとの話を聞いた。また、八月質問書の後に原告自身がC子宅を訪れたとき、C子の父が原告を厳しく叱責した。

④ D子事件については「平成五年六月ころ、D子はグランドホテルのエレベーターの中で原告に抱きつかれ、部屋まで引っ張って連れて行かれようとされた。それで翌日に、センターに出勤してすぐに事務長に辞表を出した。皆の見ている所で非常に激した調子で『私は原告の愛人になれません。』と言って、辞職を申し出た。」という概要であった。

⑤ 米澤助手は「女性職員有志」「被害者を支援する会一同」の一人である。六月質問状はD子の訴えを契機として多くの秘書が原告の研究室を辞めるという異常事態の中で提出されたものである。また八月質問書はA子ことJ、B子、C子、D子が井口弁護士を代理人として原告本人に宛てて出した質問状である。

原告は、非常に暴力的で、しばしば秘書に対して灰皿を投げ付けたり、殴ったりということがある。あるいは既に研究者になった人に対してさえ、いたたまれないような嫌がらせがあったりする。また、研究室では職員に「丙山先生は世界の宝、日本の柱」ということを唱えさせていた。出張に際しての心掛けには「秘書は(原告を)安眠に導いてあげる」ことも含まれていた。(「五訓」「出張の心掛け」は話を聞いたときには見ていなかった。)。

⑥ センター内ではA子事件、D子事件、B子事件、C子事件、甲野乙子事件の順で発覚した。

米澤助手はセンター内に設置された改善委員会に協力する形で調査をし、坪内所長の了解と承認を得て個々の被害者とされる女性らに会って、それぞれ具体的な被害事実を確認し、その後にも他の教授らが二人一組で被害者とされる女性らに面談調査した。

⑦ 原告は坪内所長に対し事実関係を否定する弁明をした。

(5) 被告は前記入手資料及び米澤助手の説明に基づいて、甲野乙子事件、A子事件、B子事件、C子事件、D子事件について、いずれもその事実関係を真実と信じた。

(6) 被告は、同月末に原告が「一身上の都合」を理由として辞職し東福寺に入山したことを無責任として、伊藤助教授、北野助手、米澤助手、その他懇話会の世話人と協議した上で、平成六年一月七日付けで坪内所長と井村総長宛に同時に懇話会名義で「原告のセクシュアル・ハラスメントについて大学及びセンターとしての見解を明示せよ。判明した被害者とされる女性らに対しては大学及びセンターとしても謝罪するべきである。今後このようなことがないように性差別意識の撤廃の具体的措置を講じてほしい。」という趣旨の要望書を送付した。

(二) 被告による本件手記の作成及び公表

(1) 被告は前記要望書を提出した後に、京都新聞社から「セクシュアル・ハラスメントに関する文書を書いてほしい。」との依頼がありこれを受諾した。当初は原告に関する事件には言及せず、セクシュアル・ハラスメントに関する一般的な問題を指摘するにとどめるつもりであった。

(2) その後、平成六年一月一八日付け京都新聞朝刊に野田正彰京都造形芸術大学教授の『危機状況における判断』と題する小論(以下「野田寄稿」という。)が掲載された。

野田寄稿の概要は「原告の研究は多大な社会資本が投じられた公的なものであるから、匿名の元女性職員による個人攻撃ぐらいで辞職すべきではない。大学当局は個人攻撃を容認しないという姿勢を明確に示すべきであった。元女性職員が原告を告発したいのであれば実名で刑事告訴すべきである。」というものであった(原告の実名を出していた。)。被告は、懇話会代表としての立場から、この寄稿に対し反論することを考えた。

(3) 被告は翌一六日に名を明かさない老人男性から「自分の親族の娘が二、三年前に原告の研究室に秘書として勤めたが一か月足らずで退職した。なにか大きな痛手を受けた様子であり、その理由を聴いたが答えてくれなかった。今般の原告に関する報道で事の重大さが分かり、ショックを受けた。」との電話を受けた。

(4) 被告は、野田寄稿への反論と被害者とされる女性の親族と思われる老人からの電話に触発されて、京都新聞社の依頼原稿の内容を原告の事件についても言及したものとすることにした。原稿は同月二〇日の昼過ぎに大筋が出来上がり、その段階で米澤助手にファックスで送信し、内容を吟味してもらった。

そして同月二五日付けの朝刊で公表された(本件手記)。

(三) 被告による本件文書の作成及び公表

(1) 原告は平成六年二月九日までに朝日新聞社に「私は岡本元総長と徳山理事長のあやつり人形であるかのようにして出処進退を決めてしまった。センターや大学から正式な調査はいっさい受けていない。会議などで勤務時間以後の仕事もありうるという話をした積もりなのに、それがいつしか『添い寝を求めた』に変わっている。私は初対面の女性に強引に『添い寝』を求めるようなことはしないし、まして『強姦(ごうかん)』などはとんでもない。私の沈黙は、私なりの人生の美学であったのだが、結果として多くの誤解につながってしまった。」という趣旨の手紙を寄せて、辞職願を出して以後、初めて釈明した(これは翌一〇日付け朝日新聞に掲載された。)。

(2) 同月一〇日付け京都新聞朝刊に河上寄稿が掲載された。

河上寄稿の概要は「原告の事件は非常に根深い政治的背景を窺わせるものであるが、元女性秘書に対するセクシュアル・ハラスメントという問題に矮小化されている。これは大学の自治の問題であって、国立大学の教授の身分保障の観点から論じられるべきであり、滝川事件の例も考慮すべきである。また、原告の家族の人権も侵害されている。そして、被告の本件手記は、老人・女性助手からの伝聞の形式をとっており、原告の行為に対する事実の実証そのものはなく、唐突に人格批判が続いている。甲野乙子も原告も事実関係について争うのであれば刑事告訴ないし民事訴訟の提起をするべきである。」というものであった。

(3) 被告は河上寄稿に対し、セクシュアル・ハラスメントによる女性の人権侵害という問題は決して矮小な問題ではない、大学の自治も性暴力の自由まで容認している概念もしくは制度ではない、原告の家族のマスコミ報道による人権侵害という問題はあってもここで中心的に論じることは争点のすり替えであると考えた。そして、本件手記は相当の根拠に基づいて作成したものであると反論すべく、同寄稿が「伝聞だ」と批判しているのを承けて、「決していわゆる『伝聞』ではない」という表現を用いて、本件文書を作成した(これも事前に米澤助手に吟味してもらった。)。

被告は同月二〇日に京都府婦人センターで開催された、大学でのセクシュアル・ハラスメントと性差別をテーマとする公開シンポジウムに出席した際に、本件文書を参加者に配付した。

以上の事実が認められる。

2  以上、認定したところに照らし判断する。

(一)  被告が本件手記を作成する基になったものは、前記認定のとおりの各質問書(うち二通は代理人が井口弁護士である)、Sの人権救済申立書の写し(「甲野乙子」名義である。)、新聞雑誌等の公刊物、米澤助手の説明である。

米澤助手は六月質問状等の作成及び提出、送付にかかわるなど、調査前から原告に批判的な活動をしていた。しかし、同人の調査結果のうち、甲野乙子事件、A子事件、B子事件は、改善委員会の海田教授らによるS、J、B子の三名に対する面接調査により、その三名の実在と証言の自発性が裏付けられている。また、D子事件についても、坪内所長がセンター事務長、庶務掛長らから事情を窺うなどして、D子の実在と訴えの存在について裏付けがとられたものである。

また、米澤助手が被告に対して行った説明内容は、当裁判所が証拠によって認定した事実とほぼ符合しており、誇張や著しい事実経過のずれは認められない。加えて、海田教授らの面接調査の後に米澤助手の調査結果に対し異論を唱えた者が原告以外に存在したとの事実を示す証拠もない。

一方、原告の坪内所長に対する弁明は、甲野乙子事件、A子事件、B子事件、C子事件、D子事件について、いずれの事実関係も存在しないと単に否定するのみであった。

これらを総合するに、米澤助手の説明は認定事実とほぼ符合する具体的な内容のものであり、単に自らが面接した結果を伝えたのではなく、他のセンター教授らによって裏付けを取られた結果(C子を除く。)を伝えたものであり、その信用性は高いといえる(米澤助手が原告に対する否定的評価を有していたとしても、そのことのみで右信用性が崩れるものではない。)。これに対し、原告が事実関係を否定しているという情報は、Sの人権救済申立てから一週間もしないうちに高谷教授を通じて教授辞職願を提出し、東福寺に入山したこと、本件手記が出た後の平成六年二月一〇日まで特段の弁明をしていなかったことからして、これをもって米澤助手の説明の信用性を崩すには到底至らないものであった(「二〇歳代の女子大学生が五〇歳近い教授に自分からすすんで性的関係を持つことは非常に考えにくい。」「Sの申立てがもし真実でないならば、原告は何も辞める必要はない、真実であればこそ、反省し、自らの意思で辞表を出したのであろう。」という被告の推測も不合理であるとまではいえない。)。

なお、平成五年一二月一七日付け要望書に誤記があるけれども、本件手記ではその後の調査に基づいて同じ間違いをしていないのであるから、これをもってただちに被告が調査を怠りがちであるとの事実を認めることはできない。

(二)  してみると、実在性の裏付け及び証言の自発性の確認ができなかったC子(センターに提出した陳述書も署名押印がなかった。)はともかく、A子事件、B子事件、D子事件(海田教授らの面談調査にD子が応じなかったけれども、第三者であるセンター事務長らによる確認がとれている。)については、質問書や申立書の存在等も含め、米澤助手の説明に依拠してこれらの事実を真実であると信ずるについては相当の理由があったものということができる(とくにA子事件は真実であると認められる。)。

したがって、A子事件、B子事件、D子事件(いずれも甲野乙子事件に比べれば、性的関係の強要には至っていないのであるから、「軽微」である。)をもって「そして三件の比較的軽微なセクハラの事実が出てきた」としたことについては、右事実を真実であると信ずるに足りる相当の理由があるというべきである。

(三)  本件文書は本件手記に対する批判を内容とする河上寄稿に対する反批判として書かれたものであるから、本件手記を土台にしたものであるといえる。そして、前述のとおり、本件手記の作成・公表段階では被告にはこれを真実であると信ずるについて相当の理由があると認められる(本件手記公表後本件文書作成前の平成六年二月一〇日付け朝日新聞に掲載された原告の釈明は、事実関係を抽象的に否定するか、あるいは自分の意見を述べるものにすぎず、具体的事実について言及するところはほとんどないから、これをもってしても米澤助手の説明の信用性を動揺させるには至らないものである。それゆえ、本件文書作成時でも、前述の調査をもって真実であると信ずるについて相当の理由があるというべきである。)。

したがって、被告は相当の調査をして本件手記を公表したのであるから、「決していわゆる『伝聞』ではない。」との事実は真実であると認められる。

3  まとめ

こうして、本件文書の事実記載部分の内容は真実であり、本件手記の事実記載部分のうち「そして三件の比較的軽微なセクハラの事実が出てきた」という部分についてはこれを真実であると信ずるに足りる相当の理由があるというべきである。

四  争点3について判断する。

本件手記及び同文書の論評部分は、いずれも本件手記の事実記載部分を前提とするものであるところ、前記判断のとおり、本件手記の事実記載部分は真実ないし真実と認めるに足りる相当な理由があるうえ、その論評としても通常人ならば持ちうるであろう合理的な論評の範囲を出るところはないと認められる。

したがって、本件手記及び同文書の各論評部分は相当なものであるというべきである。

五  結論

1 事実記載部分については、内容が公共の利害に関する事実であり、かつそれが真実であって、専ら公益を図る目的で公表したことが認められるときは、その事実記載部分の公表は違法性を帯びないというべきである。また、記載内容が真実であると証明できなくとも、真実であると信ずるに足りる相当な理由があると認められるときは、その事実記載部分を公表して名誉を毀損したことの責任を問われないというべきである。

論評部分については、その前提事実が真実ないし真実と信ずるに足りる相当な理由がある場合は、その事実を前提として通常人が持ちうる評価ないし意見として合理的な範囲にあるものと認められるときは相当な論評として、その論評の公表は違法性を帯びないというべきである。

2  そうすると、被告が本件手記及び同文書を公表した行為は、その各事実記載部分については真実もしくは真実であると信ずるに足りる相当な理由があり(内容が公共の利害に関する事実であり、かつ専ら公益を図る目的で公表したことについては争いがない。)、その各論評部分については通常人が持ちうる合理的な論評の範囲を越えるところがない相当なものであるから、結局、原告の名誉を違法に毀損したとの責任を負うものではないというのが相当である。

3  以上の次第で、原告の本訴請求はその余の判断をするまでもなく理由がないから失当としてこれを棄却する。

(裁判長裁判官窪田正彦 裁判官村田渉 裁判官鈴木拓児)

別紙一〜五〈省略〉

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